8/3 『縦横無尽2001』第二回
54年12月22日●蔵前国技館 「初代日本選手権」 力道山が木村政彦との引き分けの約束を破ってボコボコにKO。つまりダブルクロス(裏切り)。
壮絶な試合内容に非難の声があがりましたが、プロレス真剣勝負幻想を支える、異種格闘技戦伝説の原点ともなりました。
記憶やファンタジー活字の情報に頼らず、ビデオ検証可能かどうかがシュート活字式検証の大原則です。それにしても、プロレスという未知の仕事が正式に始まった同じ年の暮れには、早くもお客さんはリアルなケンカの部分を見てしまっている。最初から禁断の実を食べていたというわけです。
ここで、真剣勝負エンタテインメントの元祖と� ��ての、日本発祥のプロ格闘技興行キックボクシングの歴史にも注目しておく必要があります。プロレスの姉妹分として、暗い過去を引きずった事実も覚えておかなくてはなりません。
今も昔も日本のメディア情勢は大本営発表型が基本です。もっとも、当時は記者でさえ詳しく格闘芸術の仕組みを知らない創世記でしたから、批評が成立するだけの情報量がなかったと考えるのが自然でしょう。毎日新聞以下、一流全国紙のスポーツ担当記者でも真剣勝負だと信じたまま取材していた人間が少なくないことにも原因があったのです。
▼70年代(高度経済成長、国際化、ロック音楽の完成)
アントニオ猪木の全盛時代です。正確には猪木、馬場の巨頭が張り合った時代でしたが、光っていたのも狂っていたの もキラー猪木でした。何しろ猪木は、アリ戦の借金が片付いてない76年12月には、パキスタンのカラチで地元の伝説的英雄アクラム・ペールワンの腕を本当にへし折ってしまうという、信じられない記録も残しているのです。
メディアは「活字プロレス」の創始者、井上義啓率いる週刊ファイトの黄金時代でした。80年には村松友見の「私、プロレスの味方です」が出版され、インテリがプロレス好きをカミングアウトする契機となって一般読者にも相当数が売れました。村松氏はのちに直木賞作家となったのは有名な話です。
76年6月26日 ●武道館「格闘技世界一決定戦」 モハメド・アリ×猪木
77年12月8日 ●蔵前国技館 全日最強タッグ決勝 テリー&ドリー・ファンクス×ブッチャー&シーク組
78年1月23日 ●大雪のMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)からの新日中継。藤波辰巳がカルロス・ホセ・エストラーダにドラゴン・スープレックス炸裂、ジュニア王者に。
特に、それまでのプロレス界の常識からは一生スターとなり得ない小さな体の藤波の活躍がやる側の選手たちに与えたインパクトは大きいものがありました。もちろん、見る側にとってもその影響は大きく、現在23周年を迎える関西のファンクラブ誌「闘竜」を創刊させた試合でもあります。
ちなみに、わたしも全国で初めての学生プロレス団体の創設に加わり、翌79年に世界で最初のシュート活字による(プロレスをショーと認めた上での批評や観戦記を掲載する)ミニコミ誌「レスリング・ダイジェスト」を発行しています。
79年8月26日 ●武道館 東京スポーツ20周年記念「夢のオールスター戦」BI砲が8年ぶりに復活してブッチャー&シン組に快勝。
▼80年代(日本式経営最強論、アメプロは単なるショー説)
銀行は戦いESPNを獲得した
前半の主役は81年にデビューしたタイガーマスクです。世界最大かつ最強団体としての新日の栄光の日々、後半の目玉「UWF誕生」の両方に関わったキーパーソンは佐山サトルでした。
佐山は19歳当時の77年に、キックの大会で真剣勝負を経験しています。この時点ですでに「200戦をこなしている新日の若手ホープ」と紹介されていました。新生UWFの旗揚げは88年です。前田日明、高田延彦、船木誠勝の「格闘だんご三兄弟」なくして、93年からのシュート革命はあり得ません。
WWFはビンス・マクマホン・シニアからジュニアに政権交代し、単なる東部地区団体が本腰を入れて全国制覇に乗り出しました。Tシャツ、フィギュア� �などのグッズ販売と、PPV有料放送以下の新メディアのパイオニアともなりました。当時のエースは超人<nルク・ホーガン。新日での人気をそのまま本国に持ち帰った事実をみても、このジャンルに関して世界をリードしていたのは日本であることがわかります。
80年2月27日 ●蔵前国技館 猪木対ウィリー・ウィリアムス 梶原一騎プロデュースの異種格闘技戦。道場で練習する青年たちの側から見て、極真空手と新日のふたつが果たした格闘技界への影響は計り知れません。
83年6月2日 ●蔵前国技館 ハルク・ホーガン対猪木 IWGP決勝戦 猪木がアックスボンバーで失神! タイガーマスクの引退と合わせて、新日神話凋落のきっかけと説明されることも多い試合です。
メディア情勢は活字ファンタジー中毒症状を蔓延させ、週刊化で成功したターザン山本編集長の週刊プロレスが躍進しました。UWF真剣勝負幻想を武器にしたことが大きかったようです。一方で「金曜夜8時」の定番だったプロレス中継は、ゴールデンタイムからどんどんと深夜番組へ追いやられていきます。
� ��昭和世代 対 平成デルフィン世代
マット界では10年ごとの総括とは別に、「昭和世代」という用語が頻繁に使われます。「平成デルフィンたちの街」は、専門誌業界名物の「I編集長(前出の井上)語録」でおなじみの言葉です。大阪出身の人気覆面レスラーの派手さに象徴される、新しいプロレスファン層を意味するようです。ここでの昭和世代には、やや新日派のニュアンスが強く、猪木の闘魂にしびれ、ストロングスタイルを標榜していた人たちを差します。
平成元年の89年は、東京ドーム完成に伴う大型興行時代の開始を告げられて始まりました。同時に大仁田厚のFMWの出現など、インディーズによる多団体時代の幕開けでもあります。
全日ではジャンボ鶴田が三冠タイトルを統一し、アントニオ� ��木が参議院に当選して、事実上レスラーとしては引退した年でもありました。
WWFは公判の証言などを通して、プロレスがショーであることを団体側が正式に認めた特筆すべき年なのです。実は今日のWWFの躍進は、従来の感覚では致命傷となると考えられてきた情報公開に踏み切ったことにあるのですが、残念ながら今でも日本では、その事実を認めようとしない関係者やファンが多数を占めています。
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89年4月24日 ●プロレス興行が東京ドーム初進出 新日の「格闘衛星★闘強導夢」は ソ連選手がプロデビューし、格闘技色がテーマとなった大会でした。長州力政権開始ともいわれるこの日、猪木が柔道の金メダリスト、ショータ・チョチョシビリとの異種格闘技戦に初黒星を喫し、IWGP王者トーナメントではベイダーが橋本を破り新王者になっています。
89年11月29日●東京ドーム UWF「Uコスモス」 メインには前田、セミには高田のカード編成。しかし、業界関係者にとっての本当の衝撃は、前座で決行された安生洋二×チャンプア・ゲッソンリット戦と、鈴木みのる×モーリス・スミス戦でシュート試合が実現したことでした。猪木のおっぱじめた異種格闘技戦というプロレス上のギミックが、
ファンタジーを突き抜けてリア� ��ティーと合体し、純格闘技としても成立した瞬間を目撃することになったのです。
▼90年代(日米逆転とアメプロ黄金時代、バブル沸騰と崩壊)
91年は第二次UWFが分裂して、藤原嘉明、船木誠勝、鈴木みのるが藤原組、高田延彦、山崎一夫、宮戸優光、安生洋二らがUインター、前田日明がひとりぼっちでリングスと、U系三派が旗揚げ戦を行うことになりました。
メディア情勢としては、週刊プロレスのピークが91、92年でした。メガネスーパーという企業をスポンサーとするSWSと正面からケンカしても、潰れたのは「全日をお金で裏切った」(と活字にされた)天龍をエースとする新団体の方でした。
格闘技通信のピークは93、94年でした。K‐1創世記と、柔術の取材でブラジルにまで記 者が飛んだ総合格闘技の誕生期です。リアルタイムで同時進行するシュート革命の現場レポートは、海外在住者にとっても毎号が興奮の連続で、3倍の値段でも航空便で定期購読する価値があったものです。グラビア系専門誌の素晴らしい写真の質や、増刊号や別冊での資料の充実度では、週刊ゴングの緻密な企画力が広く尊敬を勝ち取りました。
92年10月23日●武道館 Uインター「格闘技世界一決定戦」高田延彦 対 北尾光司 伝説のハイキックによるダブルクロス
93年シュート革命元年
94年3月20日 ●MSG WWF「レッスルマニア10」。原点回帰でニューヨークに戻ってきた春のPPV祭典は、アメプロのニュージェネレーション宣言を象徴する大会になりました。ブレットとオーエンのハート兄弟対決は、歴史の審判を経た21世紀になってから、レスリング・オブザーバー以下各業界週刊紙の歴史総括において、「90年代の最高試合」と評価されることになります。また、レイザー・ラモン×ショーン・マイケルズの伝説のはしごマッチは、のちに選手となる、やる側の少年たちに与えたインパクトの巨大さや、アメプロが質の面で日本を再逆転するきっかけとなる試合だった点でも画期的でした。
94年11月20日●東京ドーム 全女主催「女子オールスター戦」 対抗戦ブームの集大成といえます。アジャ・コングを倒して女王と なったのは、メキシコへの恋の逃避行からカムバックした北斗晶でした。アメリカからシュート活字関係者が大挙して日本に密航してきた興行としても世界的に重要で、グレイシー柔術と豊田真奈美を同時に語ってみせることがインテリ・ファンの条件とされたものでした。
95年阪神大震災と60分時間切れの小橋 対 川田戦
グレアム·ロイドは、トレーニングのために何がありません
阪神大震災の2日後の大阪府立体育会館で行われた小橋健太と川田利明戦の60分間を、90年代でどれかひとつ選べといわれた場合の最高試合賞に選ぶジャーナリストは少なくありません。それは両者の持てる才能の限りを尽くした試合が、震災の被害者に捧げられたという意味と同時に、秒殺を売りにする真剣勝負団体に対する強烈な返答でもあったからです。
60分間続く格闘技とは何なのかを考えた場合、お客さんを満足させることのできるプロレスの感動には、どんなにがんばっても競技スポーツは勝てないことを見せつけられたことも忘れてはならないでしょう。
シュート革命に対する伝統プロレス側の逆襲が世界中で� ��開したのも95年でした。5月7日、後楽園ホールでの豊田真奈美と井上京子の60分間は世界中のファンを魅了しました。
95年4月2日 ●東京ドーム 週刊プロレス主催「夢の懸け橋」オールスター戦 11団体が終結した奇跡の大会をプロデュースしたのはターザン山本編集長。多団体時代として、それぞれの価値観を主張したタイミングが幸運でした。デスマッチからシュートまで、女子プロも和製ルチャリブレも揃えたし、全日のトップの素晴らしさも伝わりました。公称40万部を誇った「活字プロレス」という木曜日発売の麻薬は、堺屋長官以下多くの「文化人プロレスマニア」をも洗脳しましたが、世界中でこんなに深く活字でプロレスを分析する専門誌が存在するのは日本だけという、とんでもない誤解がまかり通ることにもなってしまったのは残念です。
95年4月7日 ●第5回UFC Uインター出身のダン・スバーンがトーナメントに優勝し、パンクラスのケン・シャムロックは主催者側のエース、ホイス・グレイシーと30分以上戦って勝負がつきませんでした。
95年4月20日●武道館 第2回バーリ・トゥード・ジャパン・トーナメント リングスの山本宜久、修斗の中井祐樹を下して、予想どおりにヒクソン・グレイシーが連続優勝を果たします。この日、集英社から印刷されたばかりの「プロレス・格闘技、縦横無尽」を受け取っています。全試合ガチだけの興行が成立している現場をライブで確認しながら、処女作を出版できた喜びをかみ締めていたのが思い出されます。
これまでの業界の掟を完全に破り、はっきりとプロレスの仕組みを公開した上で、それまで誰もやったことがない視点と 分析でスポーツ芸術の魅力を再紹介することが拙著の目的でした。現実にリングの上では、それまでやりたくてもできなかった真剣勝負が決行されていたのですから、報道する側の姿勢も変える必要があったのです。
95年10月9日●東京ドーム 新日 対 Uインターの「全面戦争」 WCWにも輸出された90年代のベストアングルです。武藤敬司が高田延彦を「四の字固め」で下した伝統プロレス側の勝利は、東京スポーツが週刊プロレスから政権を奪回したことの象徴でもありました。
もっとも、これを機会に、日本語のメディアはレベル面で停滞していきます。読んでおもしろく、タブーなしでアングルや勝敗予想を分析していく、アメリカの業界紙が圧倒的に論壇をリードしていくことになります。
95年秋に、WWFのRAW中継と同じ月曜日の同じ時間帯に、裏番組としてWCWがナイトロをスタートさせました。いわゆる「月曜生戦争」開戦です。アメプロの繁栄に比例して、報道する側の競争が激化していきます。「ダイアルQ2有料情報からインターネットまで、英語で語ら� �る日本情報の方が和文の専門誌よりも詳しいし、本当のことが書かれている」―――この亀裂は格差の傷口を広げていくことになっていきます。
97年高田延彦 対 ヒクソン・グレイシーでPRIDEが開催
96年8月24日●有明コロシアム リングス5周年記念大会 ついにメインイベントでバーリー・トゥード戦が組まれ、山本宜久が玉砕しました。U系プロレスとして出発したリングスが、一線を超えて始まったパンクラスの方法論を追撃します。
大将・前田の負傷欠場期間にガチンコ試合の割合が急増しましたが、高阪剛とヴォルク・ハンの奏でた格闘芸術がこの日の至宝と評することも可能でしょう。
96年9月7日 ●NKホール パンクラスTruthツアー バス・ルッテンに挑戦した船木誠勝が負けた試合は、格闘技とプロレスがついにひとつのものとなった名勝負として記憶されることになります。この試合はアメリカでもPPVで放送され、絶賛されました。ちなみに、この大会では近藤有己がフランク・シャムロックをKOしたりもしています。
97年7月27日●UFC14 10年以上日本を主戦場に戦ってきたU系プロレス人脈のモーリス・スミス(キックボクシング)が、五輪アマレス出身のマーク・コールマンに作戦勝ち―――ファンタジー×リアリティー論争は最後のくさびが打ち込まれました。
97年10月11日●東京ドーム 第1回プライド 会場を埋めた9割以上のプロレスファンの願いも空しく、高田延彦がヒクソン・グレイ シーに完封されます。しかし、世間一般が総合格闘技のことを話題にするようになった功績は計り知れないものがあるでしょう。
97年11月9日●東京ドーム K‐1グランプリ決勝 名古屋ドームの完成もあり、新日とK‐1が「8大ドーム球場で激突!」したプロ興行界の金字塔の1年間でした。トリを務めたのはミスター・パーフェクト、アーネスト・ホースト。フジテレビの視聴率は20.7%を記録しました。
ここまでの流れをまとめたのが、12月に発売された「開戦! プロレス・シュート宣言」(読売新聞社)です。「禁断の業界用語集」にて、アングル、ブック、ジョブ、ワークなどの隠語を最初に紹介した本でした。その12月には本家UFCが日本に上陸し、桜庭和志(当時キングダム所属)が優勝して「プロレ� ��ラーは本当は強いんです!」と発言。数々の敗北を通して、UWFプロレス勢のリベンジが始まっています。
2000年の総括は別の記事があるので、とりあえず簡略版の歴史のおさらいはここまで。実際にアメリカの関係者間で回されたファン編集の8時間ビデオのリストもあるので、シュート興行の進化の軌跡を感じてくだされば幸いです。
[シュートファイティングの歴史] カト・クン・リー鷹さん選出6時間編集テープ
1. ホイス・グレイシー vs. ケン・シャムロック 英語PPV版
UFC 1-11/12/93, デンバー
前田、フライらのリングス映像を無断使用した予告編付
2. バス・ルッテン vs. 船木誠勝 英語PPV版
パンクラス Truth Tour - 9/7/96, NKホール超満員
3. 田村潔司 (UWFインター) vs. 山本宜久(前田道場)
リングス Mega Battle -12/21/96, 福岡国際
4. ヒクソン・グレイシー vs. 高田延彦
PRIDE 1-10/11/97, 東京ドーム
5. フランク・シャムロック vs. エンセン井上
修斗VTJ97-11/29/97, NKホール
90分の折り返し点以降は、すべて99年の試合から選ばれた
6. バス・ルッテン(パンクラス) vs. 高阪剛(リングス)
UFC 18-1/8/99, ニューオリンズ
日本のUWF黄金カードがUFCのメインイベントに
7. 桜庭和志 (Uインター?キングダム・高田道場) vs. ヴィトー・ベウフォート
PRIDE 5-4/29/99, 名古屋レインボー・ホール
タイガーマスクばりのローリング・ソバットが柔術神話を壊す
8. 佐藤ルミナ vs. 宇野薫 ウェルター級選手権メインイベント
修斗-5/29/99, 横浜文化
地球を一周した「大航海」の帰還先はプロレス大陸だった?
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